ご存知のように,股関節は英語でヒップ "Hip" おしりの関節と書く.こどもの股関節を診察する時にも「おしりのかんせつ」などと言っても,おしり,と言えば後ろのぷよぷよしたあたりを思うのでなかなか伝わらない.こどもが「ひざが痛い」「腰が痛い」などと言っても,必ず股関節も診察するのは,股関節が痛くてもそのことを言葉で表現するのが難しいからである.
もう二十数年以上も前の話である.工学部の大学院を修了してから医学部に再入学して整形外科医になっていた私は,京都大学生体医療工学センターで人工関節などの研究に専念していた.ある日,私が研究所の事務室で文献をコピーしていると,工学部の大学院に入学したばかりの E君が部屋に入ってきた. E 君は大学の剣道部でも指折りの剣豪であるらしい.私も剣道をたしなむので,お近づきになりたい,とひそかに思っていた学生さんだった.うわさによると,「基礎は卒業した,大学院は応用だ.」と豪語して,わざわざ他の研究室からこの研究所に移籍してきたらしい.
私がコピーをしていたのは人工股関節の摩耗に関する文献であった.後年,私は人工関節用にビタミンEを含有するポリエチレンを開発することになるのだが,この当時はまだ人工関節用ポリエチレンの摩耗に関する工学論文は少なく,症例報告から様々なことを類推することが多かった.臨床論文をエンジニアの学生が読むのはちょっと難しいのだけれども,この英語文献に目を留めた E 君は覆いかぶさるようにして一心不乱といった様子で読みだしたのだ.そういえば,E君はこの研究所に来る以前にはポリエチレンの合成研究をしていたらしい.E君は全身を硬直させ,その横顔は赤く上気してきたようにも見える.いったいこの論文の何が彼をこんなに引きつけたのだろうか.まだ二〇代前半の歳であったE君は,人工股関節に関するよほど貴重な内容をこの英文の中に見出し,私はうかつにもそれを見逃していたに違いない.
しばらくすると,E 君は赤く上気した顔を私に向けて,恥ずかしそうにこうたずねた.
「せ,先生.このヒップと言うのは,,あの,,,おしり,のことですよね.」
「,,,,,,,」
人工おしりの摩耗に関する文献は私も未だ見たことがない.